夜九時を過ぎている。数学のワークは開いてある。鉛筆も出ている。それなのに、手だけが止まっている。親から見ると、こういう止まり方がいちばん厄介です。遊んでいるわけではない。ふざけているようにも見えない。やろうとはしているらしいのに、進まない。その半端さに、親のほうが落ち着かなくなります。
つい言いたくなります。「学校で解き方を教わってないの」「塾でやったんじゃないの」「忘れちゃったの」。数学が止まると、原因はすぐに「分かっていないこと」だと考えやすいものです。もっと分かりやすく教えてもらえればできるのではないか。もっと丁寧に説明してもらえれば進むのではないか。そう思うのは自然です。
ただ、家で止まっている子には、少し違うことが起きています。学校や塾で説明を聞いているときには、本人も確かに分かった感じがしているのです。ノートを見れば見覚えもあるし、先生の言っていたことも何となく思い出せる。ところが、一人で机に向かうと、その「分かった」は急に頼りなくなる。最初に何を見ればいいのか分からない。どの問題なら自分で入れるのかもはっきりしない。少し考えて分からないと、そのまま手が止まる。時間だけが過ぎていきます。
数学は、こういう止まり方をしやすい教科です。英語なら単語を書くことから始めることはできます。社会ならとりあえず教科書を読むことはできます。でも数学は、最初の一手が曖昧なままだとその先が全部止まりやすい。だから親の目には「分かっていない」に見えます。けれど実際には「何も分かっていない」とは限りません。分かったことを一人で使い始めるところまで形になっていない。それで止まっていることが少なくないのです。
だから塾での進め方も気をつけてみてみてください。その場で説明して、その場でうなずかせて終わりでは足りません。例題の解き方を参考にしながら、自分で計算を組み立てていけるところまで持っていく。そこまでできて、ようやく家でも動ける可能性が出てきます。きれいな説明を聞いた、ではなく、自分で最初の一問に入れた、のほうがずっと大事です。
親は「分かったなら解けるはずだ」と思います。子どもは「分かった気はしたのに、やろうとすると止まる」と感じています。このズレが続くと数学は少しずつ嫌な教科になります。難しいから嫌になるだけではありません。始められない。止まる。聞かれる。うまく答えられない。その流れが何度も繰り返されるうちに、机に向かうこと自体が重くなっていくのです。
ワーク・ドリルが開いているのに進まないとき、よく見たほうがいいのは「理解したかどうか」だけではありません。その子が一人で最初の一問に入れるところまで準備できているかどうかです。数学で本当に必要なのは、その場で「なるほど」と思うことより、家で一人になったときにも、例題を手がかりにして自分で動き出せることなのだと思います。

